“ふたり暮らし”に愛を。15歳差、結婚7年目の贈り合い
ささやかで気ままな大人のふたり暮らしは、7年目を迎えた。
私が結婚をしたのは、22歳。夫は37歳だった。15歳差で早婚という、ややセンセーショナルな関係性は、当時まわりの友人たちに羨ましがられた。
「私も早く結婚したい」。それから友人たちはどんな恋をしたのか知らない。きっと友人たちが社会人の恋愛に翻弄されていたであろう中、私は22歳から現在28歳に至るまで、夫との穏やかな暮らしを選び続けている。
子どもなし、ペットなし。15歳差の夫婦が乗り越えた、ひとつの壁
周りからは、「そんなに早く結婚したのだから、そのうち子供を生むのだろう」と思われていた。私もそう思っていて、一度は「来たるべきそのとき」のために郊外の大きなマンションに引っ越したこともある。まずは新卒入社したばかりの会社で仕事に慣れて、そのうち、そのあとは、ゆくゆくは……と。
しかし残念ながら、そんなことにはならなかった。
結婚して2年後、39歳の夫は病に倒れたのだ。
倒れたといっても、突然バタンといったわけではない。毎日少しずつ体調が悪くなって、何度も医者に診てもらっても原因がわからず、食欲がなくなり、体が細くなり、気づけば数ヶ月で20キロ痩せていた。
24歳の私は泣きながら看病をしていた。気を紛らわすために友人との食事に出かけては、「私が選んだ道は間違いだったんだろうか」と落ち込んだ。若い時代に原因不明の病の年上の夫を看病するというライフイベントは、私を途方もなく悩ませた。それでも夫は気丈に振る舞っていて、いつもどおりの愛おしい元気なそぶりを見せていて、とてもありがたかった。
そのあと夫は、国指定の難病であるとようやくわかり、約半年間の入院生活をはじめる。夫は持ち前の明るさで、入院生活に楽しみを見つけ出し、看護師や医者とすこぶる仲良くなっていた。時々私が持ち込むノンアルコールビールや、てりやきマックバーガーや、手作りの餃子をおいしそうに食べていた。夫が無事に退院したのは、2018年7月のことだ。
壁を乗り越えて、私たちは「ふたり暮らし」を選んだ
私たちの暮らしは、その病気の前後で一変した。
まず、子どもという選択肢がなくなってしまった。夫は「残りの人生は、自分のためだけに、身軽に生きる」と決めたからだ。私も夫の姿を見ながら、「いつ死ぬかわからないから、自分のためだけに生きよう」と思うようになった。
きっと私たちの子どもがもしいたらとても愛おしいけれど、それを背負うには、私たちは随分死の淵に立ちすぎてしまった。
家には、私と夫以外の生命体がいない。子どもと同様、ペットも選択肢からなくなった。大人ふたりでささやかに、気ままに生きよう。22歳と37歳で、満ち満ちた新婚生活をはじめた私たちは、想像とはまったく違う未来を選ぶことになった。
好き合っている大人ふたりが暮らすのには、あまり難儀なことは起きない。もちろんふたりだけの距離のとり方、機嫌の取り合い方がある。それらを何度も話し合いながら、調整して、心地よい暮らしをふたりで実現させていく。
とにかく大切にしているのは、「今のふたり暮らしは、とってもサイコーである」とお互い確認しあうこと。そして、大切なパートナーを喜ばせるために、贈り合いを欠かさないことだ。おかげさまで、7年目を迎える歳の差結婚生活も、とても仲良く過ごせている。
特別な日も、なんでもない日も、相手が喜ぶものを贈り合う
私たちのプレゼントの基本ルールは、「サプライズをしない」。
クリスマスも誕生日も、お互いがいま何を欲しいか、何してもらいたいかをきちんと話すことから始まる。察してほしい、は絶対にNG。相手が何を考えているかなんてわからないというのが、15歳差夫婦の大前提にある。
たとえばこれまでは、私からは「ディズニーシーでビール飲んで豪遊したい」だとか、「銀座の久兵衛に一度は行ってみたい」だとか、「伊豆長岡の宿でのんびり温泉浸かりたい」だとか、そういった体験をねだることが多かった。
夫は逆に、「こういうガジェットが欲しい」「こんなヘッドフォンが欲しい」などモノを持つのが好きな人で、そういう類のものを贈ることが多い。
特別な日はそうやってお互いのリクエストを伝え合うのだけれど、なんでもない日は、ちょこちょことルールを破ってサプライズを用意する。とても、ささいなものである。
近所の美味しいお店のピスタチオケーキ。
和菓子屋さんで始まったシャインマスカット饅頭。
たまたま目に止まった秋物のトレーナー。
そういうものを「じゃーん」と出して、わーいとパチパチ拍手しあう瞬間が、一番愛おしいものだ。こないだ私が買ってきたCarharttのトレーナーを、夫は「早く寒くならないかな」とウキウキしながら鏡に当てている。
暮らしを愛する私たちにある、「お花」という選択肢
誕生日は相手をおもてなしする一大イベントだけれど、結婚記念日やいい夫婦の日は、互いを慈しみ合うタイミングだ。そういうとき、私たちは気に入ったお店に外食へ出かけていたけれど、コロナ禍ということもあり、なんとなくおざなりになり始めている。
今回このエッセイを書くにあたり、「たしかに、お花という選択肢があったなあ」と思った。時折気が向いたときに切り花を買って飾っていたけれど、フラワーアレンジメントやブーケなど、大きなものはあまり手を出したことがない。
でも、ふたり暮らしを愛する私たちにとって、おうちを彩るお花というのは、とても素敵な選択肢に思えた。
試しに、お花を飾ってみた。土曜の朝、元気のいいお花屋さんのおじさんが「どうぞー!」とそのまま手渡ししてくれた、パステルカラーのアレンジメント。中央のピンクのユリが堂々としていて、とてもかっこいい。
映画やドラマやアニメを愛する私たちの趣味の棚をバックに置いてみた。ほとんど部屋の中央に位置していて、よく目立つ。夫が「かわいい。いいにおい。いいね」と、目の前を通るたびに何度もいう。
コロナ禍で同じような日が延々と続く中で、お花という消え物は、一日一日を特別にさせる"小道具"のように思えた。数日間、私たちはお花が健やかに過ごせているかを気にしながら過ごしている。それは、穏やかな大人ふたり暮らしのメンテナンスのようなものかもしれない。
毎日毎日、少しずつ少しずつ、相手を喜ばせて、慈しんでいく。お花は、そういう大切さを教えてくれるものだと思う。
どんなに頑張っても、私たちは病気の前に戻ることができない。それでもふたりで暮らしていく日々に、お花は一滴の優しいエッセンスをもたらしていた。
編:小嶋らんだ悠香
大人のふたり暮らしに、お花の優しいエッセンスを
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